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Iron Storm (Sega Saturn)

From The Cutting Room Floor
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Title Screen

Iron Storm

Also known as: World Advanced Daisenryaku: Koutetsu no Senpuu (JP)
Developer: Sega
Publishers: Sega (JP), Working Designs (US)
Platform: Sega Saturn
Released in JP: September 22, 1995
Released in US: May 8, 1996


RegionIcon.png This game has regional differences.
BonusIcon.png This game has hidden bonus content.


So very stubbly.
This page is rather stubbly and could use some expansion.
Are you a bad enough dude to rescue this article?
Hmmm...
To do:
Check the Japanese version of the game.

Bonus Content

Cacti speak Japanese.
...But what does it mean?
This game has text or audio that needs to be translated. If you are fluent with this language, please read our translation guidelines and then submit a translation!

The text files README.TXT and SENSHI.TXT contain messages.

README.TXT


ここをみつけましたね。
せっかく見つけていただいたので開発陣の何人かの言いたいこと書きたいことを載せて
あるので、お暇なかたはお読み下さい。いくつかの文章には本人以外の落書きも入って
いますが気にしないで下さい。

このたびは、本ソフトをお買い上げ頂き、本当にありがとうございます。
一体日本に(っていうか世界中に)以下の文章を読むユーザーの皆さんが一体何人いる
のか?
などと考えもしますが、まぁ開発スタッフの『心の叫び』をお聞き下さい。読み苦しい
文章もあるかと思いますが、笑って許して頂けたら幸いです。

 (企画 日並 雅宏 29歳 男 独身)

◎【次はイタリア抜きだ!!】(抜いたのは私。だって脇役じゃいやなんだもん)
 本当にイタリア軍でプレイしたいなんてユーザーの皆さん是非「地中海の戦いをテー
  マにしたシミュレーション遊びたいな。つくれよセガ。」とお手紙をお送り下さい。
  (一通くるかな?本当にきたらつくりたいなぁ)あ~あの脳天気な名曲の復活を夢見
  て・・・
◎【Littorioは強い!!】(スペックはね)
 「奴等にはこの艦では勝てない」と英国地中海艦隊に言わせたい・・・やっぱり北ア
 フリカの主力はDAKでなくイタリア軍でしょう。

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とりあえず終わって?よかったね      デザインチーフ 清宮敦嗣

 メガドラのBN3制作が終わった平成6年春。もめにもめたプロジェクトも終わってやっ
と一息かな?という淡い期待も一気にすっとばしてやってきました大戦略。
 「ユニット600! 」「一機30ポリゴン」「デザインメンバーは決まっていない!」
 器材は?   「無い」
 アプリケーションソフトは?    「無い」
はあ、全部手配しないといけないのね。てな具合で作業人員もアメリカ帰りの横川君と
新人の酒井、西村の
計四人となり、だいたい作業形態と器材がととのってきて、バグと戦いつつもなんとか
ソフトも使える様になってきたのが、秋口。
 「一機30ポリゴン」の無謀さを企画に説得し(パンツァーと違ってはしょるにも限界
があるんだぞ)、スケジュールを切り直す。「ねえ一機何日かかる?」「二日位ですかね
え」この応対で横川隊の死の行軍が始まった。このころ馬立、番重の増援が合流する。
 年が明けて、冬休みも行軍は続行された。この時期、オープニングシネパック隊、ゲ
ーム内MAP等隊、ユニット隊に別れ、我が軍は三軍体制で進み、二月、戦果の割りに締
切が遠いユニット隊に、ついに援軍が到着する。雲野、原田、綿貫、☆島である。これ
により、行軍速度は飛躍的に向上し今日の結果を見るのであった。やっぱし一機三日だ
ったね横川君ごめん。(蛇足 横川君は最後まで一機二日を貫いた。)映像では、ポリゴ
ンリサーチの園田さんにオープニングの三機のCGを担当して頂いた。いいかげんな注文
ばかりで御手数かけて申し訳ありませんでした。正直超助かりました。それをまとめた
馬立、大岩もご苦労様。
 とはいうものの、この手のジャンルは、知れば知るほど、やればやるほど、はまれば
はまるほど、凝りたくなるもので、正直まだあれもできる、これもできるというのが実
情で、やりきれなかったこと、詰めきれなかったことばかりです。もし時間をゆるして
くれて☆☆☆がつくれたなら・・・
なにはともあれできあがったことと、スタッフに感謝。関係各位とこのゲームを買って
頂いた皆様に感謝致します。


蛇足 買って頂いた皆様にぜひお願い 索敵有り、天候有りでプレーして下さい。
 海戦は、敵配置とかいっさい見ずに索敵有りで進めるのがベスト。一歩一歩がドキド
キもので、敵索敵機に見つかった瞬間の恐怖と、逆に艦隊を先に発見して、してやった
りという喜び。無残に集中攻撃を食らう艦隊。
 そして天候では、インパールの泥沼地獄と、ソ連の極寒の地。晴れが来ないことを願
う、日本とドイツの後半のシナリオをぜひ体験して下さい。
 
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◎今年4月に「輝水晶伝説 アスタル」を終わり、ほえーっとしてた所にいきなり召集
をかけられてしまいました、日本キャンペーンを担当した神子 敏康(25歳 男性 身
長170cm程度)です。
さてさて、その日本ですがみなさんご承知の通り日本は零戦、隼といった優秀な戦闘機
と練度の高い兵士によって序盤戦では無敵の強さを誇っていました。
このキャンペーンにおいても序盤はかなり楽にプレイできるものとなっています。
しかし新機種の開発に遅れ、更に防御力を軽視したため練度の高い兵士はいつしかごく
少数になってしまったため圧倒的に不利な状況へと追い込まれていったのでした。
というわけで日本編はじわじわと苦しくなっていきます。
しかしながら、なんとか勝てるMAPばかりですので挑戦してみてください。

と、いうことでなんとかこのプロジェクトも終わりそうな感じになってきたんですけど
(終わるよねぇ) 感想としては「嗚呼、夏休み」といったとこですかね。
もう肌が哀しいくらい白くって・・・・ぬぅ、やはりここは失われた夏を取り戻しにい
くしか・・。
まぁとりあえずプロローグ21にでも行ってアニソンを歌いまくるとするかねぇ(宣伝込
み)
じゃ、ま、そういうことで次回作でお会いしましょう。
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 とりあえず、お買い上げいただきまして有難うございました。敗戦50周年と言う節目
の年にこういったソフトの開発に関わったということで、いろいろ感慨深いもの(本当
か?)がありました。
このソフトが、あの戦争や歴史について少しでも考えるきっかけとなってくれれば幸い
と、個人的には思っております。       
                  ポリゴンユニットデザインチーフ  横川 聡

PS. ポリゴンユニットを見ていて、『なんだ? ドイツ軍機の迷彩が左右対称じゃな
いか!』とか
『III号、IV号戦車にキューポラが無い!!』とか、『疾風のスピナーの色がちがう!
!!』とか
 『アメリカ軍にいる機**兵って、まるで横**の*F*みたいじゃないか!!!!
!』などと
  お怒りになる方が、少なからずいらっしゃることと思います。お怒りごもっともと
ではあります
  けれども、口に出して言っちゃだめです。いや本当に。
  
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皆さんコンニチワ あめりかきゃんぺーんなどなどの担当のもっちーこと
持田 英昭 です。アメリカキャンペーンの特徴は
1・莫大な軍事費
2・巨大な軍事費
3・膨大な軍事費
に尽きます。
でも、結構、大勝ターンは少しきつめにしてあります。(爆撃機は邪道だ!)
初心者は勝利を狙っていきましょう。(欲張るなよ!)
お堅い文章になってしまったのでここから軟らかい文章にしよう。
とりあえず謝辞、ボクの疲れをいつもいやしてくれた鷺沼の居酒屋「ま○り」の
マスター及び日本酒「千代○光」に感謝します。
さらに夜中の長電話に耐えてくれた、す○き ま○ぶ 君 ありがとさん。
ここから軟らかい文章
 題名「ニ○ティーを読む」
 今日もニ○ティーの書き込みが俺を呼んでるぜイエィイエィ
 よむぞよむぞ命を懸けてーーーー(何の代え歌のつもりかな?)
 ○番会議室をのぞくとーー今日も書き込みいっぱい
 「ア○○」師とかがいっぱい書いてるぜーーよむぞよむぞ気合いをこめて
 このソフトも「やま○き」師に評価して貰えるかな売り飛ばさないでね。
 みなさん、ちょくちょく読んでるのでいっぱいかいてくださいませ。
 ここまで良く分からない日本語を書いていますが気にしないで下さい。
 本能の赴くままに続きを書きます。
 題名「ビデオをみる」
 そろそろたまりにたまったビデオをそろそろ見なくては押入が埋まってしまいます。
 とりあえず「無責任○長タ○ラー」のLDをみよう、アザ○ンの声は本田さんもいい
けど笠原さんもいいなほほーー(え~あの波形パターンの?まぁ僕も好きだけどね。
by H 歌もいいな、うん by K )、久々に参謀会議にも出たいなー???
 とりあえず「別冊○女コ○ック」連載の「は○めちゃんが一番」のTV化を期待しよ
う
「○マは○学4○生」の録画したまま見ていないのもみなくちゃね! 
題名「その他もろもろもろ」
 ずっとリプライを出していない某メールゲーム「鋼鉄の○」いまどうなっているのか
な?(3カ月ほっといてます。)
うぅやばい あたまのわるさまるだしなのだ ちょっと知的なところを
                           見せなくては!!!
しかし、長くなったのでこのへんにしよう。

 おまけにマニュアルに載せる予定だったのにいろいろな都合で乗らなくなった
(すこしかなしい)
 第二次世界大戦史をつけときますので暇な人は読んで下さい。(senshi.txt)

------------- 
 デザインの西村です。英軍の地上ユニットと米軍の航空ユニットを担当しました。
 中学生の頃の私は、独軍の戦車は好きだけれども英軍の戦車は大嫌いという、ありが
ちな子供でした。今回の仕事に当たって出来うる限りの資料をひっくり返しましたが、
洋書ではある程度のものはあるのですが、国内のものが特に独軍と比べてほとんどなく
、一部の車両に推測に頼らざるを得ない部分(特に後背面に関して)があったことが残
念でなりません。
 米軍の陸軍機の内のいくつかにはノーズアートを入れてみました。(B-25とB-29に
は女の子がついています。気付いてもらえたでしょうか。)これは単に私の趣味という
のもありますが、兵士の日常の部分を少しでも表現したかったという狙いがあります。
時として大戦略における航空ユニットは、単にZOCを張るためだけに燃料がなくなるの
もお構いなしに使われたりする事もあると思います。ゲームですからそういった遊び方
ももちろん否定するつもりはありません。ただ私たちがゲームで使っている兵器に実際
に乗って命を落とした人が居るということ、それらの兵器が多くの人の命を奪ったとい
う事、そのことを忘れたくはありません。
あの戦争が終わってからもう50年が過ぎました。
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 今回の作品がデビュー作となります、デザイナーの酒井智史といいます。
仕事としては主に、
・3Dユニット(日本&ソ連&フランスAFV、日本海軍&ビスマルク&アイオワ)。
         ・戦闘シーンのカメラワークの一部&エフェクト関係。
         ・「大戦略」の莫山ロゴ。     とかいろいろやりました。

いろいろと溜まっているので言い訳がてらツラツラ書いてみたいと思います。

(なおこの文の文責は全て私にあります。この文章に書いてあることは個人的考えであ
り、チームの総意なわけではありませんのであしからず。)


1・大和を3つも描いたのは私です。ウォーターラインシリーズにはまった小学生だっ
たのでつい…。
  武蔵に関しては、レイテ以外大和を使い回しています。だからレイテ前で武蔵を沈
めると永久に見られませんのでご注意を。チームの人々によると、「レイテの武蔵は白
いのだ!」ということなので船体を白く、私が小学生の頃読んだモノの本によると、レ
イテの武蔵は甲板を黒く塗っていた、という記述があったため、甲板が黒くなっていま
す。本当の所を知っている方いますか?ちなみに兵装も違うのですがわかりますか?       

2・他の艦にも色々と凝ったことをしたかったのですが、時間と資料の関係上涙を飲み
ました。知っている方は色々思うことがあるかもしれませんが、お許し下さい。また、
私の知識が日本海軍に偏っていたため、他国の海軍には不備も多いかと思いますが、ど
うぞご容赦を!    

3・AFVはもっと細かい違いが色々と見受けられると思います。本当に詳しい方にチェッ
クしていただくと良かったかもしれませんが、きっと色々言い出すと発売が150年くら
いのびてしまうので、割り切らせていただきました。

4・戦闘シーンについては、自分の中では、円谷英二特技監督の戦記物をイメージして
いました。(ジオラマ、書き割り、ピアノ線の世界です!)戦闘をかっこよく描くこと
には異論があるかもしれません。しかし、兵器同士の戦いのかっこよさと戦争の影の部
分とは、今回は分けて考えることとしました。(個人的には、ちょっと嫌悪感を覚えて
しまうほどのモノになっても構わないと思っていましたが。 ユーザーの方が、兵士の
首や腕がちぎれ飛んだり、倒れた兵士の周りにできる血溜まりを見たがっているとは思
えませんし。またそれをやったところで、本意ではない受け取られ方…例えば
成人指定になるとか、兵士の死にざまが気持ちいいとか言われるとか…をされるのを懸
念した、という理由もあってあの様な表現に落ちついたと言えるでしょう。) 
   
  その結果として、人間の息吹があまり感じられないモノになってしまい、影の部分
を伝えられるモノになっていると言い難いところが、とても残念です。誤解のないよう
に言うと決して戦闘シーンをけなしているわけではありません。ゲームの中のフューチ
ャーとしてはかなりいい線のモノができたと思っています。(無理なお願いの数々をし
っかり実現してくれた野村君には本当に頭が下がります。どうもありがとう!)また、
このゲームもシュミレーションとして、十分楽しめるモノができたとは思います。しか
し、我々がやりたかったことと、会社のこのゲームに対しての姿勢に、開きがあったた
めにこのような形でこのゲームを送り出さざるを得ないことは、送り手として、悔しい
気持ちでいっぱいです。

5・特攻と原爆については、チーム内でも意見が分かれる部分でした。しかし、中途半
端な扱いになるならいれない方がマシ、と言うような経緯で今回、ゲーム自体に入れる
ことは見送りとなりました。(文章では入っていますが。)自分としては、太平洋戦争
を扱うのにそれが入ってない方が問題だと思うし、ゲームだと言うことを理由にその事
実から逃げていることそれ自体がすでにクリエイターとして後退していることだと思え
ます。ゲームのシステムに組み込むのは難しいとは思いますが、ゲーム自体が持つ無限
の可能性を、ゲームで戦争をする、と言う一面だけで論じようとする人々に見せつけて
やれるモノを作るべきだったのではないでしょうか。これだけ巨大になったゲームマー
ケットが映画や文学等と同じ文化の一部として機能していくためには、セガや、他のゲ
ームメーカーがこれから果たすべきことは、技術を見せつけることではなく、ゲームと
いうモノでしかできない表現を使って、表現の裾野を、分野をもっと広げていくことで
は ないでしょうか。それができなければ、ゲーム機は「NEXT LEVEL」でも、中身は「N
EXT LEVEL」ではないのではないでしょうか。

いつか「NEXT LEVEL」のゲームのできるその日まで‥‥まだまだやり残したことは、や
まほどありますよね!日並さん!乱筆乱文に長々つきあっていただき、ありがとうござ
いました。それではまたお会いしましょう。
   
---------------------
 皆さん大変御苦労様でした。

          By.勤続13年目のじじいプログラマー 脇原 でした。

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こんかいはここまで

SENSHI.TXT


・大戦前史
 第一次世界大戦後、欧米列強は敗戦国ドイツには多大な賠償金の支払いの義務を負わ
せ、共に戦った日本にはこれ以上の日本の拡大化がないよう対日圧迫政策を用いた。そ
してこれに世界恐慌が加わり両国の貧困は度を深めていった。ドイツではそのような状
況下でヒトラー率いる国家主義政党「ナチス」が徐々に民衆の支持を集め政権につき領
土拡張政策をとった。
日本では活路をアジア進出に求める思想が一般的になっていった。
こうして世界の緊張は徐々に増していったのである。
1931年~1933年
 1931年9月、中国大陸の満州に駐留していた日本の関東軍は、自ら南満州鉄道を
爆破しそれを中国側の謀略だとし攻撃を開始した。そして1932年3月には満州全土
を制圧しこれを満州国とし皇帝「溥儀」をたて傀儡政権を樹立した。これを国際連盟は
日本の侵略行為と判断し満州国の撤回を求めたが、日本側はこれを受け入れず1933
年3月、国際連盟の脱退を宣言し欧米列強との対立を深めた。同年10月ドイツもライ
ンラントの帰属問題で国際連盟と対立し脱退を宣言するのである。

1935年~1936年
 ドイツはかねてからヒトラーが唱えていたベルサイユ条約の打破にとりかかった。
1935年1月、ザール地方の帰属をめぐる住民投票でザール地方をドイツへ取り返し
領土拡張への足がかりとした。そして次にドイツがねらったのは非武装中立状態である
ラインラントのドイツへの帰属であった。まず1935年3月、ベルサイユ条約の破棄
を宣言し同時に再軍備を宣言したのである。
そして1936年3月、陸軍9個大隊をラインラントに進駐させた。こうしてドイツは
ベルサイユ体制に終止符を打ち、それを指揮したヒトラーはドイツの英雄への階段を上
っていくのである。

1937年
 1937年6月、日本では明朗内閣と呼ばれた近衛内閣が成立した。同年7月、北京
郊外の廬溝橋で日中両軍の衝突が起こり、これが発端となり終戦まで続くことになる日
中戦争が始まったのである。政府の戦争の拡大を嫌う声の中、陸軍は強硬論をもって派
兵をし12月には南京を占領、そこで大虐殺事件を起こし中国の民族的反抗運動を刺激
し徹底抗戦を決意させ、これに米英の支援が加わりのちの太平洋戦争にまで発展してい
くのである。さらに同年11月、前年に結ばれた日独防共協定にイタリアが加わり枢軸
3国が形成され世界の緊張はさらに増していった。

1938年~1939年8月
 この年ヒトラーはドイツへのオーストリアの併合計画を実行に移した。これまではイ
タリアの反対やイギリスとの外交関係上この計画は実行に移せないでいた。しかしイタ
リアがエチオピアに進軍しドイツの支持を要したことなどが重なりオーストリア併合へ
の障壁はなくなり、1938年3月ドイツ軍は進駐を開始しオーストリア国会で合併法
を可決させた。勢いに乗ったヒトラーはチェコスロバキアにドイツ系住民の多いズデー
テン地方の割譲を要求した。そして解決のため開かれたミュンヘン会談ではドイツの拡
大よりも、ソ連の拡大を恐れる英仏両国はヒトラーを支持しチェコスロバキアはズデー
テン地方を手放すことになるのである。
 ヒトラーは英仏は今後もドイツとの対立を避け続けることを確信し、さらに強気の外
交政策を打ち出し続けた。1939年3月、ドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハ
に進駐しボヘミア・モラビア地方をドイツ保護領とし、残りの領土には傀儡政権を樹立
させた。この結果、英仏はドイツとの対決姿勢を明確に示し始めた。つづけてドイツは
ポーランドに対しダンチヒ地区の返還を要求したが、英仏の支援を受けたポーランドは
これを拒否した。これに対しドイツは宿敵と見られていたソ連と不可侵条約を結び英仏
を牽制しポーランド侵攻の準備にかかった。
開戦予定日の前日にポーランド・イギリス間に相互防衛条約が結ばれ開戦は延期された
が、8月31日のドイツ・ポーランド間の形だけの交渉のあと攻撃命令が下され、ドイ
ツ軍はポーランド領内に侵入した。9月3日、英仏はドイツに宣戦を布告し第二次世界
大戦が始まるのである。

ノモンハン事件
 1939年5月12日、外蒙軍(ゴビ砂漠より北のモンゴル軍)がノモンハンの西南
方面から満州国に侵入した。これを満州軍国境監視兵が撃退したが関東軍(満州国内日
本軍)司令部はかねてから越境した敵に対して強硬的姿勢を打ち出すことを決定してい
たので、外蒙軍への攻撃を命じた。
日本軍は外蒙軍をハルハ河の左岸までいったんは退けたが、再び右岸に外蒙軍が進出し
てきたため、さらに兵力を投入した。しかしながら重火器を大量に持つソ連、蒙連合に
破れ大敗北を喫した。こうしてノモンハン事件の第一幕は降り、つづいて7月第二幕が
上がるのである。
 日本軍の撤退後、ソ蒙軍はハルハ河を続々と越えて満州に進出してきた。これに対し
関東軍の強硬派は軍中央部の事件の拡大化を嫌う意向に反し、ノモンハン方面への兵力
の集中を開始した。6月25日、主力部隊を結集したあと、7月2日攻撃を開始した。
日本軍は左翼、右翼の二軍に分け進撃を開始したが、左翼隊はソ蒙側の圧倒的な機甲部
隊による反撃を受け7月3日午後4時には撤退を開始した。右翼側は当初は優勢を保っ
ていたが戦況の推移と共に状況は悪化して行き最後の頼みの砲兵隊の攻撃も弾薬の不足
、射程距離の不足から成果を上げられなく日本側は持久戦への転換を余儀なくされるの
である。
 戦況はしばらく小康状態を保っていたがソ連側は兵力を増強し8月20日大攻勢に転
じた。日本側はなすすべもなく壊滅していき、9月4日ようやく関東軍司令部が軍中央
部に従い兵を退き、9月16日停戦協定が成立したのである。

1939年9月~1940年 ドイツの電撃戦 
ポーランド侵攻 
 1939年9月1日ドイツ軍は雪崩のようにポーランド領内に攻め入った。ドイツ軍
は開戦5日でポーランド空軍を壊滅させ制空権を奪った。混乱したポーランド地上軍を
優秀な機甲部隊を持つドイツ軍は蹂躙し、9月3日にはポーランド回廊を遮断した。ド
イツ軍主力部隊は9月6日にはピリツァ河を渡るというように戦いはドイツ軍ペースで
すすみ、9月10日からのプズラ包囲戦でポーランドの軍事力は尽きた。さらに9月1
7日には独ソ不可侵条約での密約(ソ連とドイツでポーランドを東西で分割支配すると
いう密約)にそってソ連軍が攻め込み、ポーランドの命運は尽き崩壊したのである。

フランス侵攻
 ポーランド戦の翌年の1940年4月、ドイツ軍はノルウェー、デンマークに進出す
る。短期間でデンマーク、ノルウェーをほぼ制圧し北ヨーロッパをドイツの影響圏にお
さめた。そして次の目標はフランスであった。
 当時フランスは第一次大戦でドイツと戦った苦い経験からドイツとの国境線にマジノ
線といわれる要塞による防御ラインを形成していた。連合国側はドイツはマジノ線を避
け第一次大戦と同じく中立国のベルギーを経由して攻め込んでくると予想しベルギー国
内に戦力を配置した。しかしドイツ軍は当初は連合軍の予想通りの作戦行動をとろうと
したが、ドイツ軍参謀マンシュタインが第一次大戦と同じ作戦では連合国側に対策を容
易にされ、戦果を挙げられないと考え、次のような作戦を立案した。
 従来のように北部への攻撃を主攻撃とせず、主攻撃はベルギーとフランスの国境のア
ルデンヌを機甲部隊に突破させ北部の連合軍の背をつくというものであった。この計画
を見たヒトラーはこれに飛びつき実行に移した。
 ドイツ軍は自軍をABCの3軍に分けた。それぞれの役割はA軍集団はアルデンヌを
突破しイギリス海峡まで進出して連合軍の後方を遮断する、B軍団はベルギー・オラン
ダを経由してフランス国内に進撃する、C軍団はマジノ線と対峙するというものであっ
た。そして1940年5月10日、まずB軍団がベルギー・オランダに進撃し、連合軍
は予定どおり北部に兵を展開し、そこで手薄となったアルデンヌにA軍団が機甲師団を
先頭に突入した。守備をしていたベルギー軍は大した抵抗もできず13日にはドイツ軍
はフランス国境を越えミューズ河畔に達したのである。ミューズ河畔のセダンに進軍し
たドイツ軍は同日、ミューズ河渡河作戦を開始した。フランス軍はこれに対し増援を送
り対抗したが攻撃の開始が遅れた。この間にドイツ軍は機甲師団の重装備を渡河させる
ことに成功しこの増援軍を撃破しセダン地区のフランス軍を後退させイギリス海峡への
前進を始めた。このころになり連合軍側もアルデンヌからの侵攻軍が主力ということが
わかり、この阻止のために残存部隊をぶつけるが、ドイツ空軍により反対にたたかれた
。5月20日になるとドイツ軍はソンム河流域まで侵攻し連合軍の南北の交通線を遮断
した。この事態を重く見た連合国側は英機甲師団を主戦力としての反撃を5月21日ア
ラスから開始し当初は有利に戦況を進めたが、ドイツ空軍、陸軍の連携による攻撃によ
り大損害を被り後退した。この敗戦により南方との連絡が完全に遮断されたフランス北
部の連合軍はダンケルク港から海路で脱出するしか助かる道はなかった。ドイツ軍はこ
の撤退の阻止を機甲部隊を温存し航空戦力で行うことを決定した。だが雨が降り続いた
め、連合軍への爆撃ができずそのあいだにイギリス軍は多数の艦船をダンケルクへ集め
30万の兵士の撤退に成功した。
 この後、大量の戦力を失ったフランスは各地で残存部隊による抵抗を試みたが、いず
れも撃破された。ドイツ軍は6月14日にパリへ入城し、6月24日に軍隊を失ったフ
ランスは降伏するのである。
 この列強の一角フランスを崩した大勝利はドイツ国民がヒトラーへの熱狂的な忠誠を
誓うのに充分なものだった。

イギリス上陸作戦
 フランスを降伏させたドイツは連合国側に和平を求めた。しかしイギリスはこれに対
しドイツの侵攻した全ての国からの撤退を求めた。当然ヒトラーはこの条件をのまず、
イギリスを屈服させるためイギリス本土への上陸作戦を始動するのである。その作戦名
は「あしか作戦」と名付けられた。この作戦計画ではドイツ陸軍、海軍で意見が食い違
った。陸軍側は39個師団26万名を上陸させ、さらに必要に応じて50万名の予備兵
力を投入するというような大規模な作戦を主張した。これに対し海軍は自軍とイギリス
海軍を比べると制海権の確保は困難という結論に達し作戦の延期縮小化を望んが、結局
陸軍の案に近い形で作戦が実行されることになり、不安材料のイギリス海軍へは空軍が
これに対することになった。そのため海峡の制海権を確保するため後にバトルオブブリ
テンとよばれる航空戦を実行に移した。この航空戦には戦闘機1000機、爆撃機16
00機が動員され1940年7月から攻撃が開始された。9月上旬まではイギリスの空
軍基地レーダー基地等を攻撃し制空権を確保するが、このあと目標を都市部に変更する
とこのためイギリス空軍の体制立て直しを許してしまい、制空権を奪回された。結局、
制空権の確保できなかったドイツ軍は「アシカ作戦」の実行を来年春まで延期すること
を決定したが、作戦の不可能性から二度と日の目を見ることはなかった。

1941年
アフリカ戦線
 ムッソリーニ率いるイタリアは1940年6月、英仏に宣戦布告した。しかしながら
これはドイツの成功を目の当たりにしたムッソリーニがイタリアもそれに習おうと戦争
準備も整ってない自国を急に戦争に引きずり込んだものであった。そして早速ムッソリ
ーニはエジプトに侵攻した。当初イタリア軍は順調に進撃したが、補給に対する不安か
ら進撃は停滞し始めてしまった。そして1940年12月イギリス軍の機甲部隊を中心
とした反撃が始まり、近代装備を殆ど持たないイタリア軍は総崩れとなった。イギリス
軍はイタリア軍を追いエジプト国境を越えリビアにまで侵攻し、バルディアに立てこも
るイタリア軍を包囲した。そして年が明け1941年1月イギリス軍はバルディア総攻
撃を開始した。バルディアは3日で陥落し、撤退したイタリア軍はその後も敗走を繰り
返しベダ・フォムの地で侵攻当初20万人いたイタリア軍は全滅した。この事態を重く
見たヒトラーはイタリアの戦争からの脱落を防ぐためにロンメルを指揮官とするドイツ
・アフリカ軍団の派遣を決定した。戦闘は3月30日から始まりドイツ・イタリア軍は
イギリスからリビアを奪回するためにアシェダビアを攻撃しこれを占領した後、ベダ・
フォム、ムスス、ベンガジ、メキリと進撃した。つぎにドイツ・イタリア軍はトブルク
へと駒を進めたが、イギリス軍の5日間の必死の抵抗により占領できずにいた。ロンメ
ルはトブルクを迂回しさらに東に進撃していった。
 5月半ばにはいると、イギリス軍の反撃が始まりリビア・エジプト国境付近では、は
げしい防戦が繰り広げられた。イギリス軍は緊急に本国より300両もの戦車と50機
の戦闘機を海上輸送で戦線に投入し、反撃の準備を固めていった。そして6月15日に
バトルアクス作戦を始動し、トブルクで包囲されている友軍を救おうと進撃を始めた。
イギリス軍はカプッツォを占領することに成功したが、ドイツ・イタリア軍の戦車隊に
後方に展開され攻撃を開始されると戦線は崩れ大損害を出し撤退した。イギリス軍は再
び戦力の補充を行い次の作戦に備えた。ドイツ・イタリア軍は大した補充もされない中
トブルクへの攻勢計画を実行に移そうとしていた。1941年11月18日、イギリス
軍はドイツ・イタリア軍を急襲しトブルク包囲網を突破したがドイツ・イタリア軍の各
個撃破戦術により大きな損害を被った。ドイツ・イタリア軍はイギリスの士気の低いう
ちにその補給線を断つためにエジプト方面に軍を動かした。この間に兵力の再編成を行
ったイギリス軍はトブルクのドイツ・イタリア軍を攻撃した。ロンメルは急いで引き返
しこれを迎撃したが徐々に押されはじめ、補給の面でも欠乏してきたため、西方への撤
退を始めた。退却するドイツ・イタリア軍をイギリス軍は追撃したがドイツ・イタリア
軍の巧みな防御戦術で戦力を削り取られていった。このころドイツ・イタリア軍には増
援が加わり次の年の戦闘に備えるのであった。

バルカン制圧
 前年1940年10月よりイタリア軍はギリシャに攻撃を開始していた。しかしなが
ら戦いはギリシャ軍が主導権を握っていた。そしてギリシャ政府はイタリアがドイツに
助力を求めるだろうと言う判断から、イギリスに助けを求めた。それにこたえ、イギリ
ス軍はギリシャ国内に駐留しドイツ軍に備えた。これはドイツの生命線ルーマニアのプ
ロエシチ油田がイギリス軍の爆撃範囲に入ってしまうことから、ドイツにとって軽視で
きない事態になった。さらにルーマニア、ハンガリー、ブルガリアに続き、枢軸国側に
つくはずだったユーゴスラビアがクーデターのため反旗を翻した。これらに対しヒトラ
ーは従来兵を進める必要のなかったはずだったこの地への攻撃を命ずるのである。ドイ
ツ軍はオーストリアとブルガリアの二方面からユーゴスラビアに侵攻した。ユーゴスラ
ビア軍は近代化されておらず、次々と主要都市を占領された。4月13日にはユーゴス
ラビア軍は壊滅し4月17日降伏した。一方ギリシャには東部国境より10個師団が進
行を開始し、4月9日サロニカを占領し、さらにユーゴスラビア方面からも進行を開始
した。ギリシャ軍は撤退を繰り返し4月23日に降伏した。イギリス軍はドイツ軍の追
撃をかわしギリシャ本土を脱出することに成功した。ドイツ軍はさらにギリシャ・イギ
リス軍の立てこもるクレタ島に攻撃を加えた。クレタ島攻略戦にはパラシュート・グラ
イダーによる降下猟兵の攻撃が主力となった。攻撃は5月20日に開始されパラシュー
ト部隊に大きな被害が出たものの飛行場を見おろす位置にある107高地の占領に成功
し、マレメ飛行場を手の内におさめた。ドイツ軍は空輸で軍を増強し5月27日には島
の南はじの港スファキアまでイギリス軍を追いつめ、イギリス軍をスファキアから海軍
艦艇で撤退させたのである。

バルバロッサ作戦
 かねてからのヒトラーの考えと、戦争物資不足からドイツは豊富な資源を持つソ連へ
の侵攻を開始した。
ドイツ軍はポーランドに300万もの兵力を集め北方、中央、南方の3つの軍集団にわ
け1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻を開始した。バルバロッサ
作戦の始まりである。
 中央軍集団は戦争準備をしていなかったソ連国境から数日で100キロもの距離を前
進して、国境のソ連軍を包囲した。さらにヒトラーはミンスクの包囲を命じた。これら
のドイツ軍の行動に対しソ連軍も反撃に出た。6月24日ソ連軍は占領されたグロドノ
に向い、1500両を越える戦車でドイツ軍を追い込んだがドイツ陸空軍の連携により
敗北した。そして6月28日ドイツ軍はミンスクを占領しさらなる戦果を求めてスモレ
ンスクに進出した。東進するドイツ軍に対しソ連軍は何度か反撃するが、全て撃退され
7月16日スモレンスクもドイツに奪われた。一方ドイツ南方軍集団は中央軍集団と同
じく6月22日ソ連国境を越えソ連南西戦線正面軍と戦闘を開始した。ソ連は多数の戦
車でドイツ軍を圧倒していたが、その指揮のまずさから、戦果は上がらず撤退した。ド
イツ陸軍は空軍の支援を受けながら、前進していき8月7日にはウマーニの包囲に成功
した。さらにヒトラーはキエフへの侵攻命令を出し、南下した中央軍集団の機甲部隊と
北上した南方軍集団の機甲部隊がキエフを包囲するのに成功し、ソ連軍の何度かの反撃
を退け9月26日キエフを占領した。このころ北方軍集団はレニングラードを包囲しな
がらも決め手にかけ占領できずにいた。そして10月に入り雪が降り泥濘化が激しくな
り、キャタピラ以外の移動手段がなくなり補給が途絶えがちになったが、1944年1
月まで包囲を続けるのである。

モスクワ攻防戦 
 キエフを占領したドイツ軍の矛先はとうとうソ連首都モスクワへと向けられた。「タ
イフーン」作戦の始まりである。ドイツ軍は快進撃を続け各地でソ連軍を包囲せん滅し
ていったが、北方軍集団と同じく雪のため泥濘に苦しめられ、モスクワまで80キロの
ところで進軍がとまってしまった。ドイツ軍は地面が凍り付き固まるときを待って進撃
を再開したが今度は寒さのため兵士が凍傷にかかり、エンジンも凍りモクスワの直前で
再び進撃が止まった。ソ連軍からは反撃が開始され、防御力をもう残していないドイツ
軍は総崩れとなり次々と後退していったのである。
 

真珠湾攻撃
 日本は前年1940年9月、日独伊三国同盟を結び枢軸国側につく態度を明らかにし
た。さらに1941年4月にはソ連と中立条約を結び、ソ連の脅威を排除し南方へ軍を
派遣し、1941年7月には仏印に進駐した。これに対しアメリカ・イギリス・中国・
オランダは対日経済封鎖を行った。(ABCD包囲陣)これらの悪化していく状況を打
破するため日本側は外交努力を繰り返すが交渉は進展せず、11月26日にはアメリカ
の国務長官ハルから最後通牒のハル・ノートを送られてきたが、その内容は中国からの
撤兵を求めるなど日本には受け入れがたいものであった。そして12月1日の御前会議
で開戦を決意し12月8日開戦に踏み切るのである。
 日本機動部隊はまず12月8日ハワイのオアフ島の北およそ350キロの地点に達し
た、そして日本時間午前1時30分、183機の航空隊を空母から発艦させた。航空隊
は真珠湾に係留されている米太平洋艦隊、地上の滑走路等に攻撃を行い。そしてこの攻
撃の30分後には第二次攻撃隊167機が更に追い打ちをかけた。
 この攻撃でアメリカ側は戦艦の損失5隻、中・小破3隻など17隻が被害を受け、航
空機231機を失い、さらに2402名の戦死者と4784人の負傷者を出した。日本
側は航空機29機、特殊潜航艇5隻を失ったのみであった。
 実はこのとき日本のアメリカに対する最後通牒はハワイ攻撃の30分前にハル米国務
長官に手渡されるはずだったが、駐米日本大使館は本国から暗号文で送られてきた最後
通牒の解析、英文化に手間どり、ハルに手渡されたのは攻撃が佳境に入った時であった
。このような経緯からアメリカ側はこの攻撃をだまし討ちだと受け取り、アメリカ国民
の厭戦ムードを一気に吹き飛ばし「リメンバー・パールハーバー」の声のもと参戦して
いくのである。

マレー・シンガポール攻略
 真珠湾攻撃と同じく12月8日、山下中将率いる部隊によりマレー半島東海岸への上
陸作戦が開始された。この作戦は海上の備えの堅いシンガポールをマレー半島を縦断し
て背後から攻略するというものであった。一方海上では12月10日、日本陸軍上陸部
隊を攻撃するために英国が派遣した東洋艦隊の新造戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ
」と巡洋戦艦「レパルス」が日本海軍サイゴン航空隊により撃沈された。これは航空機
の海上戦闘での有効性を世界に知らしめた戦いでもある。そして海上からの攻撃を受け
る懸念がなくなった上陸部隊はタイ国を通過し武器・弾薬は自動車に積み、歩兵は自動
車の不足から自転車に乗り南進を続けた。日本軍は北部マレー最大の防衛線ジットラ・
ラインをわずか2日で突破し、クアラルンプールの手前で激しい抵抗を受けるもこれも
突破した。そして上陸から55日後の1942年1月31日シンガポールの対岸ジョホ
ールバルに達した。日本軍はジョホールバルからシンガポールを砲撃し、爆撃機が空襲
を繰り返した。2月15日、英シンガポール守備隊から降伏の申し出があり、これを受
け入れ日本のマレー・シンガポール攻略戦は成功をおさめたのだった。

1942年
アフリカ戦線
 1942年1月21日ロンメル率いるアフリカ軍団は攻勢を再開し、キレナイカの奪
回後さらにトブルク西部のガザラ地区に進出した。その後3カ月間をドイツ・イタリア
軍は次の戦いに備え再編成に費やした。
 イギリス軍はガザラ地区の防御に地雷原と監視、防御拠点を組み合わせた「ボックス
」を多数連ねて防衛ラインを形成していた。5月26日ドイツ・イタリア軍はガザラの
防衛線に攻撃を開始した。イギリス軍は当初豊富な火力でドイツ・イタリア軍に大きな
被害を与えたが、ロンメルの巧みな指揮によりイギリスの防衛線を破りガザラへの攻撃
を再開した。消耗しきっていたイギリス軍はこの攻撃に耐えられず撤退し、さらにガザ
ラばかりかトブルクまでも奪還されエジプトへ撤退した。トブルクには大量の物資や車
両がありドイツ・イタリア軍はこれを手に入れ次の作戦への糧とした。さらにロンメル
はイギリス軍を追撃していき、エル・アラメインでイギリス軍残存兵力と戦闘状態に入
った。しかし、補給線が長く補給の受けられないアフリカ軍団に対しイギリス軍はアレ
クサンドリアからの物資と増援の到着によって強化されていった。ロンメルは8月31
日これ以上の事態の悪化を避けるべくアラメイン突破を試みるが失敗し、攻撃を断念す
るのである。イギリス軍は10月24日エジプトからドイツ・イタリア軍を排除するた
めに、「スーパーチャージ作戦」を開始し豊富な物量をたてに攻撃を繰り返しドイツ・
イタリア軍を圧倒した。そのためドイツ・イタリア軍はエジプトからの退却を余儀なく
された。さらにアメリカ・イギリス連合軍がアルジェリアとモロッコに上陸しチュニジ
ア方面に軍を進めた。これに対しドイツ・イタリア軍は降下猟兵を派遣しチュニスに迫
る連合軍を阻止し、各防御拠点でドイツ・イタリア軍は奮闘しこの戦いは翌年へと続い
た。

青作戦
 
 ドイツ軍東部戦線は多大な犠牲を出すもソ連軍の冬季攻勢から持ちこたえた。ヒトラ
ーはソ連軍の継戦能力をそぎ取るためコーカサスの油田に次の目標を定め、この作戦を
「青作戦」と名付けた。6月28日ドイツ軍は攻勢開始時において敵大部隊を補足し包
囲せん滅する計画だったがソ連軍は既にドン河東岸へと撤退していた。ドイツ軍はドン
河を越え侵攻するもソ連軍は殆ど戦わず退却していった。ドイツ軍は当初の作戦内容を
変更しコーカサス攻略を担当するA軍集団とスターリングラード方面に退却したソ連軍
を担当するB軍集団に分けられ新作戦が開始された。A軍集団は抵抗を受けるも急速に
南下していき8月にはコーカサス山脈を越えたが、補給の不足から目標の直前で進撃が
止まった。
一方スターリングラードのB軍集団はスターリングラード市内に立てこもったソ連軍と
市街戦を繰り広げていた。ソ連軍は増援を繰り返し抵抗したが、10月末にはスターリ
ングラードはほぼドイツ軍の手に落ちた。しかし11月中旬からソ連軍はドイツ軍の側
面に大攻勢をかけドイツ軍を圧倒し包囲した。ドイツ軍は包囲された友軍を救うために
「冬の嵐作戦」を発動した。救出部隊はスターリングラードの60キロ手前まで迫った
が、ソ連軍の抵抗が激しく自らも包囲される危険が生じたため作戦は中止されスターリ
ングラードのドイツ軍は翌年1943年2月に降伏した。

蘭印攻略
 マレー・シンガポール攻略・フィリピン攻略と南方作戦を進めていった日本軍の最終
目標は蘭印(現インドネシア)を占領しその豊富な資源を得ることだった。1942年
1月から蘭印攻略戦は始まった。次々とそれぞれの島を攻略していき2月末にはジャワ
島を残すのみとなった。ジャワ島上陸は3月1日に実行された。その直前に連合軍の艦
隊がスラバヤ沖にて上陸阻止に向かってきたが日本軍の護衛艦隊により主力艦を撃沈さ
れ退けられた。撃沈を免れた艦もバタビア沖で輸送船団を攻撃しようとして逆に撃沈さ
れた。この「スラバヤ沖海戦」「バタビア沖海戦」の勝利により上陸部隊は予定通り上
陸に成功し3月10日にはバンドンを占領したことにより蘭印軍は降伏した。

珊瑚海海戦・ミッドウェイ海戦
 南方作戦で成果を収めた後、軍令部と連合艦隊司令部では次の侵攻目標の選択で意見
が違っていた。
軍令部側はフィジー・サモア方面に進出して米豪遮断作戦を主張し、連合艦隊側はミッ
ドウェイ島の攻略と同時に米機動部隊を誘い出し撃滅させると主張した。軍令部と連合
艦隊司令部の話し合いはまったく進展を見なかった。そのような状況下で1942年4
月18日、空母から飛び立ったB25爆撃機により東京初空襲が行われた。この空襲が
空母撃滅案の追い風となり5月5日「ミッドウェイ・アリューシャン作戦」が
発令されるのである。
 このころ既に決定されていた海からのポートモレスビー攻略を実行すべく「翔鶴」「
瑞鶴」「祥鳳」の3隻の空母を中心とする部隊は目的地に向かった。日本海軍の暗号を
解読し日本軍のポートモレスビー攻略を知ったアメリカ海軍は「ヨークタウン」「レキ
シントン」の2隻の空母を用意した。5月7日から8日にかけ両軍はお互いに空母を叩
きあった。その結果はアメリカ軍の被害は「レキシントン」撃沈「ヨークタウン」大破
、日本軍の被害は「翔鶴」大破「祥鳳」撃沈というものだった。戦いは正規空母1隻を
撃沈した日本軍の勝利に見えるが、航空機、人材の消耗が激しく空母の損傷も大きいた
めポートモレスビー攻略は中止せざるを得なかった日本側の戦略的敗北であった。。さ
らにミッドウェイ海戦に「翔鶴」「瑞鶴」の両空母を参加させられなくなったのも大き
な損失だった。
 5月下旬、日本からミッドウェイ攻略部隊が出港した。その内容は「赤城」「加賀」
「蒼龍」「飛龍」の4隻の空母を中心とした艦艇150隻以上の大艦隊であった。アメ
リカ側は暗号解読により日本軍のミッドウェイ侵攻を知ったため「エンタープライズ」
「ホーネット」の2隻の空母と珊瑚海海戦で大破した「ヨークタウン」を2日で修理し
合計3隻の空母を配備した。
 日本軍は6月5日第一次攻撃隊を発進させミッドウェイを爆撃した。その一方アメリ
カ軍機動部隊を発見するために索敵機を発進させ、発見の場合は艦船攻撃用の装備をし
た第二次攻撃隊が攻撃を行う予定であった。しかし第一次攻撃隊からミッドウェイへの
第二次攻撃の必要性が打電され、これまで敵艦隊発見の連絡が入っていなかったため司
令官の南雲中将は第二次攻撃隊に陸上攻撃用の装備に変換させるよう命令した。
このような状況の中、索敵機から敵艦隊発見の報を受け南雲中将は第二次攻撃隊の装備
を戻すように命令した。そこに一次攻撃隊の帰還が重なり作業が遅れ、第二次攻撃隊の
発艦準備が終わったときに米軍機が日本空母に襲いかかったのである。「赤城」「加賀
」「蒼龍」は即、餌食となり残った「飛龍」は攻撃機を発艦させ「ヨークタウン」にダ
メージを与えるも、攻撃を受け大破し味方駆逐艦により処分された。
日本軍はこの戦いで空母4隻と多数の航空機とそのベテラン搭乗員を失い、太平洋での
制海権、制空権を二度と取り戻すことはできなかった。

ソロモン・ガダルカナルでの戦い
 日本軍は米豪遮断作戦のためニューギニアから珊瑚海を挟んで東側にあるソロモン諸
島の一つガダルカナル島に飛行場を建設していた。7月末にはほぼ完成したのを見た連
合軍は速急に大軍を送り込んだのである。
1942年8月7日、2万名ものアメリカ軍上陸部隊がガダルカナル島に上陸した。3
00人程度の日本軍守備隊はなすすべもなくジャングルに逃げ込んだ。これに対し日本
軍はラバウルの第8艦隊を派遣した。第8艦隊はガナルカナル島海域で米艦隊と遭遇し
重巡洋艦4隻を撃沈するなど大きな戦果を挙げた。さらに日本軍はガナルカナル島を再
奪取すべく上陸部隊を送ったが全滅し、続いて行われる上陸作戦を成功させるべく空母
「翔鶴」「瑞鶴」軽空母「龍驤」を主力とする第3艦隊を増援に送った。アメリカ軍も
空母「サラトガ」「ワスプ」「エンタープライズ」の3隻を展開していた。両軍はお互
いに空母を叩きあい、日本側は「エンタープライズ」を中破させ、アメリカ側は「龍驤
」を撃沈した。このあと上陸部隊が上陸を試みたが航空機による攻撃を受け被害を出し
作戦は失敗した。日本軍は8月末増援の上陸に成功し飛行場奪取のための作戦を実行し
たがアメリカ軍の強力な火力の前に敗北した。
 日本軍はこの状況の打破のために大量兵力の輸送計画とその補給経路確保のための作
戦を繰り返した。
日本軍が制空権の確保のため空母4隻を主軸とする機動部隊を投入した南太平洋海戦で
は米空母「ホーネット」を撃沈、「エンタープライズ」を大破したが、日本側も大きな
損害を受けた。さらに大量の兵員の上陸とその支援のために戦艦「霧島」「比叡」を中
心とする艦隊を派遣するも、アメリカ軍との激しい戦いで半数も上陸に成功しなかった
。上陸した部隊も圧倒的なアメリカ軍の火力の前に大損害を受けさらに補給の不足から
戦える状態にはなくなっていった。大本営は1942年12月8日、撤退を決定した。
日本軍の戦死者2万名、うち1万5千名が餓死または病死だといわれている。


1943年
アフリカ戦線
 2月上旬までにロンメル率いるアフリカ軍団はチュニジアのマレトまで一気に後退し
た。ドイツ・イタリア軍はこの時までにかなりの戦力を増強させており、反撃の機会を
狙っていた。2月14日、ドイツ・イタリア軍の反撃はカセリーヌ方面のアメリカ軍に
向けられた。17日にはガフサを占領した。さらにドイツ・イタリア軍はターラ方面に
兵を進めたが、連合軍は堅固な守備でこれを阻止し、2月22日にドイツ軍は撤退を始
めた。ロンメルはヒトラーにアフリカ軍団のヨーロッパへの撤退を提案するが、アフリ
カ方面からの連合軍のヨーロッパ侵入を恐れこの提案は却下されロンメルは解任された
。3月後半から連合軍による大攻勢が始まりマレトからドイツ・イタリア軍はワジ・ア
カリト陣地まで撤退した。補給線を断たれたドイツ・イタリア軍は連合軍の攻勢を防ぐ
ことはできず、5月13日、アフリカ軍団は降伏した。

ハリコフ・クルスクの戦い

 昨年冬からのソ連軍の大攻勢はスターリングラードにてドイツ軍を破り、各地のドイ
ツ軍を後退させて、2月上旬にはハリコフを奪還した。それに対してドイツ軍は、兵力
をフランス方面から補充して反撃の機会をうかがっていた。ドイツ軍は2月19日ソ連
軍の攻勢が限界に達したと判断し反撃を開始しソ連軍を壊滅させハリコフを再占領する
ことに成功した。そしてさらなる戦果をあげるためドイツ軍は進撃を続けたが、雪解け
による泥濘がドイツ軍の行動を停止させた。その後ドイツ軍はソ連軍との決戦に備え戦
力を充実させていった。7月5日、ドイツ軍の作戦が開始され2500両以上の戦車が
クルスクを包囲する形で南北からなだれ込んだ。 それに対するソ連軍は堅固な防衛ラ
インを構築しており、ドイツ軍は前進のたびに大出血し、北上部隊、南下部隊ともに大
被害を被っており、7月13日には作戦の中止が決定されドイツ東部戦線ではこれ以上
の攻勢が行われることはなかった。物量の豊富なソ連軍はドイツに対する攻勢を続け、
消耗しきったドイツ軍を西へ西へと後退させていった。戦線はドイツ国境に近づき始め
るのである。

日本の状況

 1943年日本軍は前年の珊瑚海・ミッドウェイ・南太平洋海戦での機動部隊の損害
が激しく、この年はほとんど作戦に空母は参加させることができなかった。日本軍は2
月には南方連合軍の航空兵力及び艦隊を撃破するために残った航空戦力を南方基地に集
中させ攻撃を繰り返したが、増強されたアメリカ軍航空部隊の前に作戦は空振りに終わ
った。さらに前線の激励・視察のために航空機に乗り移動中だった山本五十六連合艦隊
司令が暗号解読によりその行動を連合軍に知られ、その搭乗機を撃墜され戦死した。日
本は敗戦への坂を転がり落ちていくのである。

1944年
ノルマンディーの戦い
 1944年6月初頭、東部戦線ではドイツ軍はソ連軍の攻勢に押され次々と後退して
行くばかりであった。
そして第2戦線として連合軍はノルマンディー上陸作戦を開始するのである。ドイツ軍
はこれを予想していたが、東部戦線の戦況の悪化のため有力部隊はほとんどフランスに
は残されていなかった。6月4日ノルマンディーへの上陸が決定され、6月6日午前に
まず空挺部隊がノルマンディーに降下し、つぎに海岸に上陸部隊が到達し侵攻を開始し
た。ドイツ軍は混乱しており上陸部隊に対し効果的な反抗はできなかった。ドイツ軍は
午後になり混乱から回復し攻撃を開始するが連合軍の空軍力のために海岸方面に移動で
きない有り様だった。しかし、内陸部に連合軍が進出するにつれドイツ軍の機甲部隊に
よる攻撃は激しくなり連合軍の前進は遅れていった。
この状態の打破のために連合軍は7月25日、サン・ロー方面で攻勢をかけた。徹底的
な絨毯爆撃によりドイツ軍は壊滅し、連合軍はこの開いた突破口からなだれ込んだ。ド
イツ軍は兵力を集中しこれに対処しようとしたが、またもや連合軍航空機のために満足
に反撃できなかった。さらに連合軍はファレーズまで兵を進め激しい攻防戦の末、ドイ
ツ軍を包囲壊滅させた。ドイツ軍10万名のうち半数は包囲の不完全なうちに脱出に成
功したが、1万人が戦死し4万人が捕虜となったのである。

連合軍の東進
 ノルマンディーに上陸した連合軍はその後進撃を続け、8月25日パリを解放した。
そして連合軍は敗走するドイツ軍を東へと追撃していった。しかしながらドイツ国境の
手前まで来たところで補給線が伸びきり、そこで連合軍の進撃は停止した。ドイツ軍は
その間に国境の守備の強化を急いだ。そして連合軍の進撃が再開され、英国元帥モント
ゴメリーの主張する「マーケット・ガーデン作戦」が行われた。この作戦は強化された
ドイツ国境を避けオランダ方面から兵を進めるというものであった。作戦は9月17日
に川の多いオランダで多数の橋を確保するために史上最大規模の空挺部隊の降下から始
まった。空挺部隊はおおむねその目標を達した。そして地上軍の侵攻が始まったがドイ
ツ軍は本国に戦場が近かったため、連合軍の予想を上回る兵力を投入することができ、
各地で連合軍は前進を阻まれ9月の下旬に入ると作戦の続行は不可能となった。

バルジの戦い
 ヒトラーは度重なる敗戦の中、最期の奇跡を呼び込もうとしていた。それは一度の大
勝利により連合軍の継戦意欲をそぐというものであった。ドイツ軍はかつての電撃戦の
出発地点アルデンヌにて攻勢を行った。連合軍はこの攻撃を全く予想しておらず混乱を
生じたが、ドイツ軍は練度が低い兵が大部分だったため、これに乗ずることはできなか
った。ドイツ軍は体制を整え直した連合軍の前にほとんど前進することはできなく、奮
戦していた部隊も次々と来る連合軍の増援の前に破れ去り、翌年1945年1月上旬に
はドイツ軍は後退し始めたのだった。

インパール作戦
 1943年初春、ビルマを制圧した日本軍の戦線は比較的平穏だった。しかし300
0名の英印軍が突如中部ビルマに現れしばらく混乱が続いた。この部隊はインドからア
ラカン山脈を越えてビルマに侵入したことが判明しこれを重大視した現地司令官牟田口
中将はその部隊の基地インパール占領を大本営に進言した。この作戦には補給上の問題
から否定的な意見があったため作戦開始が遅れたが、1944年3月作戦に実行される
に至った。日本軍は1カ月ほどでインパール近くまで進出し包囲する形となったが、用
意した食料はほとんど尽き、補給線も伸びきっている状態であった。一方インパールに
立てこもる英印軍は空中補給により物資の不足はなかった。司令官牟田口中将は撤退を
進言する部隊長達を次々と更迭し自分は徹底抗戦を叫んでいた。作戦は7月にようやく
中止されたが、日本軍には撤退するための食料も存在しなく、撤退中に力つきるものが
続出した。この作戦で日本軍は6万5千名もの死者を出したのであった。

マリアナを失う
 日本軍がソロモンで大量の戦力を失った後、太平洋はアメリカ軍の独壇場であった。
1944年5月、日本軍は南方に進出してくるアメリカ軍を動員しうえる最大限の戦力
をもって壊滅させるという「あ号作戦」が計画した。1944年5月末、アメリカ軍は
西ニューギニア方面に兵を進めてきた。日本軍はアメリカ軍主力がニューギニアの北パ
ラオ方面に向かってくると考え、艦隊を派遣した。しかし、6月に入り今度は機動部隊
がサイパン・グアム方面に現れ空襲を繰り返し、6月15日にアメリカ軍がサイパンに
上陸を開始したことから、こちらがアメリカ軍の目標と判断し「あ号作戦」を発令する
のである。日本軍は持てる限りの海上戦力をここに投入し、6月19日にアメリカ軍機
動部隊を発見し艦載機による攻撃を仕掛けた。しかし、アメリカ軍のレーダーに捕捉さ
れ、大量の迎撃用戦闘機と強力な対空砲火により壊滅状態となった。そして、日本軍機
動部隊を発見したアメリカ軍は、260機の航空機で攻撃し日本軍機動部隊を叩きのめ
したのである。これにより日本はマリアナ方面の守備力の全てを失い、マリアナ諸島を
アメリカ軍に奪われるのである。

捷一号作戦
 マリアナで機動部隊の航空戦力の大半を失った日本軍は、フィリピン防衛のために残
っている戦艦群で敵上陸部隊へ艦砲射撃を行う計画しかなかった「捷一号作戦」である
。当然、フィリピン方面の制空権はアメリカ軍の手の内にあり極めて自殺的な計画であ
った。1944年10月17日、連合軍はフィリピンに上陸を始めた。日本軍は「捷一
号作戦」を発動し戦艦5隻を中心とした艦隊を派遣するのである。派遣された艦隊はフ
ィリピン方面に向かうまでにアメリカ軍機動部隊に補足され航空機による攻撃を受け戦
艦「武蔵」を失うなどの被害を受けたが、やりすごしてフィリピンのレイテ湾突入をめ
ざした。日本軍は栗田中将率いるこの艦隊をレイテ湾に無事突入させるために、小沢中
将率いる機動部隊をおとりにする事を計画し実行した。計画は成功し小沢艦隊がアメリ
カ機動部隊に攻撃される中、栗田艦隊はレイテ湾に肉薄していった。だが栗田艦隊はサ
マール沖でアメリカ艦隊と一戦を交えた後、レイテ湾に突入せず反転していったのであ
る。これにより日本海軍の賭は大失敗に終わるのである。
1945年
ベルリン陥落 
 西からは連合軍がライン川を越えドイツ国内に侵入し、東からもソ連がポーランドを
越えドイツ国内に侵入した。そして連合軍間での取り決め通りベルリンへの制圧はソ連
が担当するのであった。4月16日ベルリンに対する総攻撃が開始されベルリン周辺の
ドイツ軍は圧倒的な兵力を誇るソ連軍に排除され、4月25日にはベルリンは包囲され
た。残存ドイツ軍はベルリンの救出を開始するが、いずれも散発的なものに終わった。
絶望を感じたヒトラーは4月30日妻のエバとともに自殺した。そしてヒトラーに新総
統に指名されたゲーニッツによって降伏へとドイツは動き始め5月7日降伏が成立し第
三帝国は終焉したのである。

終戦へ
 日本軍はすでに敗戦を覚悟していた。そして最後の決戦で勝利し少しでも有利な講和
条件を得ようとするのだった。日本軍はその決戦のための時間稼ぎのため、小笠原諸島
、南西諸島、台湾などの守備を固めた。まずアメリカ軍はB29の中継基地とするため
に小笠原諸島の南端の硫黄島攻略を決定した。
1945年2月19日にアメリカ軍は強力な艦砲射撃・航空爆撃のあと歩兵8個大隊と
戦車1個大隊が上陸に成功した。それに対する日本軍の守備隊は陸軍・海軍合わせて2
万2千名であった。日本軍は島の地下に広大な洞窟陣地を構築していたため、アメリカ
軍上陸前の艦砲射撃・爆撃にもほとんど被害はなかった。
上陸したアメリカ軍は狭い海岸で動きがとれず日本軍の攻撃のために3万名上陸したう
ちの2400名もの戦死者をだした。日本軍は洞窟陣地を巧みに利用してアメリカ軍に
大きな損害を与えていったが、圧倒的なアメリカ軍戦力の前に3月25日硫黄島守備隊
は玉砕した。
 次にアメリカ軍は4月1日に猛烈な艦砲射撃の後、沖縄に上陸を開始した。沖縄の日
本軍は当初、自らの位置を知られないように沈黙を守っており、アメリカ軍は4月18
日には島の北部をほぼ制圧した。
日本陸海軍航空隊はアメリカ軍の沖縄上陸に対し「菊水作戦」を開始した。この作戦は
多数の特攻機をふくむ延べ7000機もの航空攻撃を沖縄周辺の艦艇に行うというもの
だった。しかし、損害と較べ成果は少なく作戦は失敗に終わった。この菊水作戦に同調
して海軍艦艇も残存艦艇で特攻的攻撃を実施した。戦艦「大和」と軽巡洋艦、駆逐艦を
含む艦隊が沖縄に向けて出港するが、アメリカ軍機動部隊の航空機による集中攻撃を受
け沖縄に着くことなく海中に没した。
一方アメリカ軍上陸部隊と日本軍は島の中央部で激しい戦闘を繰り返し、アメリカ軍の
前進は止まりがちになったが、5月半ばになるとアメリカ軍の物量攻撃に日本軍は耐え
きれなくなり戦線は崩壊していった。6月末 守備隊司令の牛島中将が自決し戦闘は終
了した。沖縄戦では日本側は約9万名の軍人、同じく約9万名の非戦闘員が犠牲となり
、アメリカ軍は8万5千名が犠牲となった。
 ほとんどの抵抗力を失い、連合軍による本土空襲をも防げない日本に対し連合軍は7
月26日無条件降伏を求めるポツダム宣言をつきつけてきた。日本側はこれを黙殺した
。この日本の態度に対しアメリカ軍は日本の降伏を早めるべく8月6日広島に8月9日
長崎に原子爆弾を投下した。わずか一発で両市は壊滅した。これが日本の降伏への切り
札となり8月15日、日本は無条件降伏を受け入れ第二次世界大戦は終戦を迎えるので
ある。

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